認知症の作り話に「傾聴と共感」は。。
認知症の人に対しても、「傾聴と共感」が必要だろう。
いくつもの症状があるのだが、総称して(ざっくり言うと)脳機能障害という言葉であらわされている。
精神障害の人に対しては「傾聴と共感」が大切だと言われている。
ただただ耳を傾け、「そうそう」とうなづくだけだ。だが、言うのはやさしいが、現実として実行するのは難しい。
うちの親の時のことを思い出すと、「あきれるほど、あり得ない」つくり話を毎日聞かされて、家族は誰も皆うんざりしていたものだ。
そんな場合でも、「傾聴しなければならないから」じっくり聞いてあげるのが「本人のためになる」対処法なのだろう。
聞きたくないことだけれども、聞いてるふりなら何とか。
そして「あきらかに誤っている」ことを話しているのに、「そうそう」「そうだよね」とうなづく。共感しなければならないから。
共感など全然できないが、共感したふりなら演技力で何とか。
しかし、何とかできる場合は限定されるように思う。演技力のない者にとって、話の内容によっては「ふり」すらできない。
つくり話がどれだけムチャクチャか、知っている人は知っている。
訪問介護のヘルパーさんを指して「おまえの腹違いの妹」だと言ってみたり、「おまえは実は私が生んだ子じゃない」とか言ったり。
これらの話には前置きが付いてくる。深刻な顔をして、いかにも重大発表をするように「今だから言うのだけど・・」と言って始まる。
「こんなこと誰にも言えないから、あの世に持っていくつもりだった」というドラマの台詞のような言葉まで。
「重大発表」のあとに愛人の子を実子として育てた苦労話が続く。テレビドラマを材料にしているようだが、よく思いついたものだ。
あほらしくて聞いてられない。こんなことまで傾聴し、共感するべきなのだろうか。共感できるわけがない。
うちの親は一時期だけだが、妹が持って来た食べ物は一切食べなかった。「毒が入っているから」と言って。
実の娘が自分を毒殺するとでも思っているのだろうか。ドラマのように財産があるわけでもなく、何の利益にもならないのに。
もしかしたら妹は「実の子ではなく愛人の子」という設定だったのかもしれない。
傾聴と共感、言うのはやさしいが実行は難しい。
他人ならば「おもしろい話」ですむことなのだが、家族には。
笑い話になるのはずっとずっとあとのことだ。
<That's Ninchi Show 2 No.1191>