認知症の人に「普通」はない。。
普通であることの価値がわかるのは「非常時」だけかもしれない。
普通の人々に囲まれ、これといったできごともなく普通に暮らしていると、「普通」の価値はわかりにくい。
特に楽しいこともなく、ありふれた普通の暮らしは「つまらない」とさえ思われているだろう。
だが、地震や水害などの大災害が起こると「ごく普通の暮らし」がどれだけ貴重なものだったのかがわかる。
普通が一番で、普通こそが幸せなのだと。
親が認知症になった時も同じだ。
普通の親だったのに突然「普通ではなくなった」のだから。
世の中には「ちょっとおかしい人」「普通じゃない人」がいて、取引先などでそういう人々への対応に苦労したこともあった。だが、
そういう人々は特殊な人、仕事を離れたら関係ない、
自分には無関係の種類の人々だと、そう思っていた。
ところが親が認知症になって、突然「普通」は消えてしまった。
会話も、動作も、行動も、もちろん記憶も「少しへん」だし、
「普通ではない」し、「限度を越えている」ことも多い。
表情も同じで、「イライラして怒った顔」と「やたら機嫌がいい顔」を行ったり来たりで、「普通の顔」がない。
そのうち「機嫌のいい顔」が消えてしまって、「怒った顔」と「無表情」になってしまった。
食事にしても同じようなことが言える。
本人にまかせたら「大食い」するか「全く食べようとしない」かで、「普通に、ちょうどよく食べる」ことは少ない。
誰かが側についていないと「きっちり定時に適切に食事をとる」こともできない。
親が認知症になるまでは、「少しおかしい人」を見れば「家族は苦労してるだろうな、かわいそうに」と思っていたが、
自分がそういう立場になるなど考えもしなかった。
認知症の人に「普通」はない。
「普通」という状態は脳が正常に働いてこそのようだ。
消えてしまってからでないと「普通」のあり難さはわからない。
<That's Ninchi Show 2 No.1284>