認知症の親、命の選択。。
今の社会、今の医療には「命の選択」がある。
昔なら「寿命は神様しだい」で、誰もが「天命」として何も考えずに受け入れるだけだった。人間がどうのこうのとできる範疇ではなく。
しかし、今は人間の選択で命の長さが決まるということも多くなった。
親が子を、また、子が親の命を決定するという場面が。
出生前検査で何らかの障害があるという疑いが出ると、障がい児を育てることが難しい場合、妊娠の継続を中断できる。
他人事ならば、「合理的な判断」だと言えても、自分の子となると苦しい選択となるだろう。
老人の「胃ろう」の選択も同様だ。認知症で判断できない親が、食事ができなくなった時、娘や息子が代わりにどちらかを選ばねばならない。
胃ろうを付けて長生きするか、そのまま自然にまかせて見送るか。
「食べられなくなったら生物としては終わり、そのまま逝かせるのがいい」という考え方がある。これが欧米では主流だそうだ。
回復不可能な老人に延命医療を施し、余計な医療費をかけ、家族の負担を増やし、本人の苦しみを延長させるだけで無意味という考えもある。
終末期の延長は本人にとっては苦しみの延長で、少しも本人のためにはなっていないらしい。
それら多くの専門家の意見を聞けば、「胃ろうを付けない」という答えしかないように思う。論理的に正しい、合理的な選択だとも思う。
しかし、医師に「胃ろうを付けなかったら半年」と言われて、娘や息子が合理的な選択ができるだろうか。
親の寿命を子が決定していいものだろうかと、悩む。
他人の親なら合理的な選択ができるが、自分の親となると別だ。
かつて「うちの親には胃ろうは付けない」と言っていた人でも。
うちの親(85歳、胃ろうで寝たきり)も、二年以上という長い長い終末期となっている。短い言葉は話すことができるし、顔色もよく元気だが。
これでよかったのかと思うことも多々ある。
だが、これでよかったとは言えないが、他にどうしようもなかった。
リハビリして胃ろうを外せるという可能性があったから、それを無視できなかったわけで、回復の見込みが皆無ということでもなかった。
医療的には終末期のリハビリは健康保険外になるので、実施不可能だが、家族がリハビリすればいい。
家族に余力があれば毎日でも施設に通って「嚥下リハビリ」できただろう。
うちの家族にはそれだけの能力がなく、条件が悪い。家族によるリハビリができないという条件下で胃ろうを付けたのが誤りだったのかもしれない。
長い長い終末期、うちの親はたまに「いつ死んでもいいから」とつぶやく。
認知症が進んでいても、まともなことを言う時があるものだ。
問いかけても、それ以上は言わないので真意は不明だ。
どういう気持ちで言っているのか、毎日が苦しいのか、「もうウンザリ」なのか、考えさせられる言葉だ。
<That's Ninchi Show 2 No.1154>