認知症でも周りの支えがあれば。。。
認知症でも周囲の支えがあればできる。
今日見かけたテレビCMで気になった言葉がある。認知症サポーターを増やそうという目的の広告のようだ。
認知症になっても支援があれば「できること」は増える。
気になったのは、このフレイズだ。それはその通りで、誤りはない。現実離れしてはいるが、可能性のないことではないだろう。
そのようにできたら多くの家族は救われる。できることがどんどん減っていって、介護する側の負担がどんどん増えていっているのだから。
周りの人が支えてくれて「現状を改善」という方向に進んでいけたらどんなにいいだろうか。夢のような話だ。
この広告の製作者は現実を知っているのだろうか。
友人や親戚、ご近所の人が支えにはならない。それらの人々に「困っている人を助けよう」という気持ちがないわけでもないのに。
それでも支えになっていないのは、支えられない理由があるはずだ。
少しの善意では対応できないからだろう。それほど対応は難しい。
認知症の人と接するには善意だけでは不十分、そんなに甘くはない。
「認知症の人の介護は誰でもできることではない」という認識もないのでは? 誰にでもできるなら介護放棄や虐待は起こらないのに。
「誰でもできる」という前提のようだ。
人間は「利他的な行動」を好む動物らしい。他人を助けることで、自分が役に立ったという達成感を得る。それが利他的行動の源だ。
困っている認知症の人を助けよう、そういう善意で始めても、往々にして達成感(自己満足)とは逆の方向の結果をもたらす。
「手伝ってあげて、笑顔で感謝される」のは普通の老人。認知症の老人だと、近づくだけで蹴りを入れられたり、かみつかれたりすることも。
「ありがとう」という言葉のかわりに、その真逆の、今まで聞いたこともないレベルの汚い言葉で叱責されることもある。
善意の行動が、暴力や暴言となって返される。やってられない。善意の結果として、達成感ではなく無力感が残る。
そういう「介護しにくい例」も多いという現実を踏まえ、「誰にでもできることではない」という前提で、サポーターを募るべきだ。
しかし、そんなことを言ってたら「おそれをなして」誰もサポーターになってくれないだろう。そんな面倒なことに関わりたくないものだ。
認知症の人と家族は孤立しがちだ。それを地域の人々が支えてくれる、そんな日が果たして来るのだろうか。
<That's Ninchi Show 2 No.1047 >