介護は一人ではできない。。。。。
介護疲れによる殺人のニュースを聞くと「またか」と思う。
「何も殺さなくても、そこまでにならないように施設に入れるとかできなかったのか」と世間一般は不思議に思うことだろう。
育児疲れによる子殺しを聞いても同じだ。「殺さなくても、そこまで子供が嫌いなら施設に預けるとか、養子に出すとかすればいい」と世間は考えるだろう。
そしてまた、「昔は親殺しや子殺しなど少なかったのに、近頃になって目立つのは今の人達はガマンというものができないからだ」という偏見も出てくる。
今の若い人が特別だとは思えない。特別に忍耐力のない世代などではない。
昔と今と、「社会力」が違うことを考えていない。個人の自由や権利を優先する時代になって、社会が個人を守るという意味での「社会力」は失われていった。
子育ても、老人介護も一人では無理だ。たった一人ではできないことだ。
昔は社会が支えてくれた。地域社会の中の多くの人々の手助けによって、子供は育ち、老人は見守られていた。家族だけではとても難しいから。
保育所や老人ホームはなくても、子供や老人をご近所や親戚の家に預けて働きに行くことができた。そうでないと暮らしていけない。
戦前まで、乳母や女中を雇うことができるのは一部の金持ちだけだし、専業主婦だって官僚や学者など一部の階層だけ、ほとんどは夫婦共稼ぎだ。
夫婦が共に働きに出ていても、育児や介護に支障がなかったのは「地縁、血縁という固い絆」があったからだろう。誰かが代わりに面倒をみてくれるという。
戦後の「個人社会」では、社会からの束縛がないかわりに社会からの恩恵もなくしてしまった。それが育児や介護をいっそう困難にさせていると思う。
「たった一人での育児」「たった一人での介護」がごく普通にあって、珍しくないのが今の時代だが、そこがおかしい。このままにしていてはいけない。
子育ては「あたり前」のことであっても、一人での育児はあたり前ではない。
猿の群れでも、母猿だけが子育てするわけではない。別の猿が代わる代わる子育てを手伝うらしい。子供は群れ(社会)全体の宝だからだ。
親の介護は「あたり前」であっても、たった一人での介護はあたり前ではない。できないのが当然で、「できたらすごい」というレベルだ。
再び「社会力」が回復して、手助けしてくれるならいい。が、ここまで来た「個の社会」が、そう簡単に元に戻るだろうか。無理かもしれない。