「認知症だから~できない」という考えが。。。。。
「認知症だから~できない」という考えが一般に根強い。
これまで数々の場面で「何か解決法を」求め、いろいろ考えた挙句、その言葉にさえぎられ、何も解決できなかったという苦い思い出がある。
たとえば、次のような例だ。
1.認知症だから、24時間の付き添いがない場合は入院できない。
3.認知症だから、付き添いがない場合は点滴できない。
そのたびに、病院の方針や医療制度はおかしいと嘆いてきたが、よく考えてみれば自分も、うちの家族も「ある意味では」同類かもしれない。
うちのおばあちゃん(84歳、胃ろうで寝たきり)は姉五人弟一人妹三人という大家族で育った。その大家族が集まって毎年温泉に行くのが定例だった。
おばあちゃんも認知症の発症前までは毎年参加していた。この旅行は格別で、何よりの楽しみのようだった。いつも「みやげ話」を聞かされたものだ。
このほかにも、大家族が集まっての食事会が年に数回あって、こちらもいつも出席していた。仲のいい兄弟姉妹で、家族の絆が強かったのだろう。
認知症を発症してからは「おさそいがない」のか、「本人が自信がなくて断った」のか、大家族旅行に行くことはなかった。食事会も同様だ。
親戚が「認知症だから旅行には行けない」と思うのは当然で、責められない。
家にばかり閉じこもるようになり、しばらくすると「生きていても何の楽しみもない」と言って自殺をほのめかすようになった。この時は対応に苦労した。
認知症になっても、それまでと同じように食事会に出て、家族旅行に行っていたら「何の楽しみもない」とは言わなかったかもしれない。
認知症の人がひきこもりがちになって、家族や社会との絆が切れて「一人ぼっちになった」ような気持ち、疎外感を持つことも多いだろう。
それが「うつ病」などの精神病を引き起こす原因の一つになることもある。
家族や親戚や友人と一緒に食事に行ったり、旅行したりして楽しく過ごす。それでこそ、長生きした価値があるというものだ。誰もがそう思うことだろう。
「何の楽しみもなく」ただ虚しく年月が過ぎていっただけ、それでは「その人らしく生きた」ことにならないと思う。そばで見ているほう(家族)も虚しい思いだ。
「認知症では~できない」という考え方から脱却すれば、「ただ生存している」状態から、「その人らしく生きる」段階へ移してあげることも可能では?
今になってそれがわかっても、うちの親には間に合わない。終末期でも「その人らしく生きる」とは? それを考えてみようと思っている。
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