認知症介護は「みんながそうだから、みんなと同じ」ではなくて。。。。。
「施設はかわいそう」なのだろうか。
日本では安く入居できる施設の不足により、多くの家庭が自宅で在宅介護している。多くの選択肢の中から、最善だとして選んだものではない。
しかたなく自宅介護という場合が多い。また、日本人は「周りを見て同じ方向に進む」という国民性があり、それも加わって比率が高くなっている。
自宅介護の比率が高いのに、自分だけが「親を施設に入れる」のは、親不孝ではないかと考え、一歩が踏み出せない。なかなか決意できない。
周囲の目もある。「娘さんがいるのに同居して世話してくれないから、施設だって。かわいそう」という声もある。世間体が悪いという人もいる。
しかし、ほんとうに「施設はかわいそう」なのだろうか。
病院は「かわいそう」だった。点滴を抜くからという理由で拘束ミトンをはめられて、それを気にしている姿は見るにしのびなかった。
親を施設に入居させても、「ほんとうは同居して世話するべきなのに」「自分の都合で申し訳ない」という罪悪感を持ち続ける人は多い。
「同居して親の世話をするのが当然」という一般の常識にとらわれていると、そう思いがちだ。が、認知症の場合はこれとは別に考えるべきだ。
認知症の場合は当然ではない。条件が整っていて、能力のある場合に限定すれば、短期間の自宅での在宅介護は可能だ。長期間は難しい。
「みんながそうだから」は認知症介護には通用しない。
認知症は何種類もの型があり、同じ型でも一人一人症状が違う。持病や家庭の事情も個人個人違うから、「みんなと同じ」でいいはずがない。
「みんなが自宅介護だから」といっても、それにこだわる必要は全然ない。よって、それができなくても「罪悪感」を持つことはないと思う。
「みんなと同じ」選択をすれば、一時的には安心する。周囲の人に抵抗して「自分は自分、ひとはひと」を貫くよりは簡単かもしれない。
「住み慣れた家で家族に見守られて最期まで」という理想的な介護をめざしても、家族が心身を壊して介護放棄や虐待にならないとも限らない。
実現性の少ない「理想」にこだわることなく、最悪の結果を避けるためにはどうするかという現実的な選択をすべきだろう。
「介護うつ、介護放棄、虐待などは特殊例で、自分はならない」「他人事」と思いがちだが、誰にでも起きることで、決して特殊例ではない。
平時には「みんなと同じ」がいいとしても、認知症介護という非常事態では「最も自分にふさわしい」選択をするほうがいいと思う。
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