胃ろうの選択で悩んだら。。。。。
胃ろうを付けるか、付けないか。
胃ろうによる延命が「生命倫理的に、また、社会正義としてどうか」という高い見地からの議論があるが、それは個人としてはあまり参考にならない。
「自分の親が」という立場になると、何よりも望むのは「本人がラクに・・」ということだ。「実際に胃ろうを使う本人の声」が最も知りたい情報だ。
しかし、胃ろうを付けている人の多くは「終末期」とされる人々で、脳血管障害や認知症などの脳機能障害がある場合、「本人の声」は難しい。
自分の身体の具合を訴えることがほとんどないから。不調を感知できないのか、感知しても言葉にできないのか、両方なのか。
本人の声の代わりになるのは、医療や介護の現場の声、または家族の声だろう。そばで見ている人に代弁してもらうしかない。
胃ろうの選択で悩んでいる家族に、医療側がもっと多くの情報、少なくとも「ほんとうに知りたい情報」だけは提供してくれるならいいのだが。
付けるか付けないか、その難しい選択を迫られている家族には、「人間の尊厳がどうの」というより、「できるだけ苦痛のない晩年」が先に来る。
付けた場合と、付けない場合との比較ができないと選ぶのは難しい。
その両方を現実に見てきた者(家族という立場で)として言えることは、これだ。どちらがいいとは言えない。個人の病状など条件が違うから。
また、家族にこの選択をさせるのは無理だと思う。生命の期限に関することは本人以外には決められない。実の親子であっても。
胃ろうを付けた場合、栄養状態の改善による利点が多い。栄養がいいと脳も働き、会話もできる。顔色もよく、見た目には元気そうになる。
寝たきりだと床ずれができやすい。一度できると栄養状態が悪いと治りにくい。胃ろうを付けていれば、床ずれの発生も減るし、治りも早い。
これだけを言えば、「胃ろうを付けるほうがいい」となるが、問題は「何度も生還すること」にあるらしい。終末期が延長されることになるから。
「長い終末期は本人を苦しめているに等しい、逝くべき時に逝かせてあげるべきだ」という意見がある。何度も危篤の苦しみがあるとしたら。
それはもっともだと思う。胃ろうがなかったら、そう何度も危篤はない。感染症などで弱り、だんだんと食が細くなって、衰弱して終わる。
それが自然なのだろう。胃ろうは不自然な終末期を作ってしまったようだ。
「逝くべき時に逝かせる」といっても、いつが逝くべき時なのか、それもわからない。誰がわかるのだろう。