認知症の人の時間はとまっている。。。。。
連続した記憶の積み重ねこそが人生だ。
認知症の人は記憶が途切れる。たとえば、夕食を食べていた、その記憶がどこかにしまわれて、思い出せなくなる。夕食前までの記憶しか思い出せない。
すると「晩御飯を食べずにお布団に入ってる、何か食べなくては」と思うのだろう。真夜中に起きだして、冷蔵庫を開けて食べものを探すのは、そういう理由だ。
認知症の人は時間の感覚がずれてくる。それも記憶の積み重ねがないからだろう。普通は、一時間なら一時間、半日なら半日の分量の自分の行動の記憶が残る。
それらの記憶の量は時間の経過に比例して増える。こうして一年がたち、二年がたち、十年、五十年、八十年、長い年月が経ったと実感できる。
物心ついた時の「一番最初の記憶」から、「今さっきの記憶」まで、その一連の記憶があるからこそ、今日は何年の何月何日だという認識がある。
認知症の人の「今さっき」というのは、いろいろあって一定ではない。三時間前だったり、一日前、一週間前、一ヶ月前、半年前、時には十年前だったりする。
半年前、まだ寒かった時の記憶が、一番新しい「今さっき」の記憶だったら、今は春先だ。どんなに暑くても春だ。そういう混乱を頭の中でどう処理しているのだろう。
周囲の人が皆、「今はもう夏だよ」と言うのを聞いて、「みんながウソをついている」と思うのだろうか。セミが鳴いているのを聞いても耳鳴りだと思うのかもしれない。
本人の認識の中の時間と、現実の時間とがこんなにも大きくずれていたら、違和感があるはずだ。いつの間にか夏景色になっているのを見たら。見えていたら。
普通なら「わけがわからなくてパニックになる」ところだが、なぜか認知症の人は不思議がっている様子もなく、自信たっぷりに「今は春」と言い、意見を変えない。
この落ち着きはどこから来るのだろう。認知症だと、人によっては論理的思考ができない。壊れた部分によっては「論理的におかしい」とは思わなくなるのかもしれない。
「夏のように暑い春」という非論理的なことを、それが現実だと信じてまったく不思議とは思わないのだろう。こういうことから「時間のずれ」は修正されないことが多い。
認知症の人の時間は「どこかで」停止している、そんな気がする。