認知症の「つくり話」は誰が作るかというと。。。
生きている、生きていくということは記憶の積み重ねだ。
思い出すのも遠い、そんな古い記憶から、今さっきの記憶までの莫大な量の連続したデータの積み重ねが、人生。普通はそういうことだ。認知症でなければ。
認知症だと、途中の記憶が「まるで消えたかのように」なっていて思い出せない。それだけでなく、思い出せないと辻褄が合わないので、「架空の記憶」がそれを補う。
それを「つくり話」とか妄想とかいうが、本人は作っていないし、故意ではない。自動的につくられている話、というべきだろう。本人はそれが事実だと信じて疑わない。
知らない人は、「何でこんな大ウソをつくのだろう」と思うだろうが、本人には悪気はない。本人はウソでなく真実を話しているつもりだ。記憶にあるがままに、率直に。
自分の脳にある記憶を疑うことはない。誰だってそうだ。「自分」を否定することになるから。「自分とは何か」といえば、連続した過去からの記憶こそが「自分」だから。
もし「つくり話」が自動的に作られなかったら、「狂人のような」にとどまらず、ほんとうの狂人になってしまうだろう。それほど自己崩壊のストレスは大きい。
「つくり話」の自動作成は、脳の自己防衛、自分を守るために備わっているのでは?
「つくり話」は周囲の者にとっては迷惑この上ないが、本人には必要なものだと思う。脳が壊れていく人の気持ちを察してあげねばならない。