認知症はあせってもどうしようもない
どうしようもない「温度差」がある。
親や配偶者など、家族が認知症になった場合、当初はとても大きなショックを受ける。特有の症状に悩まされるころは周囲との温度差にやりきれない気持ちになる。
もの盗られ妄想や、徘徊、暴言や暴力は、聞いてはいたが見るのは初めてだ。人生で初めてのことばかりを、これでもかこれでもかと日替わりで体験させられる。
そんな異常なことを目にして、落ち着いてなどいられるはずがない。何とかしないといけないと心はあせり、専門医や施設、相談できるところを探して歩く。
「単なる記憶力の低下した老人」ではない。それだったら苦労は半分以下だ。
仕事関係でも親戚関係でも、一般には認知症と聞くと「大変だけど、家族がいれば介護できる」という程度に思っているようだ。「治る」と勘違いしている人もいる。
そういうことで、認知症を介護するはめになった家族の危機的状態をいくら説明してもなかなか理解してもらえない。老人の世話ぐらい誰でもできるという頭だから。
認知症の家族と一般の人との間には大きな温度差がある。
温度差の原因が認知症の知識ということなら、医師やケアマネージャーさんなど介護職の人は専門分野で知識は十分、家族の気持ちを理解してくれるはずだった。
ところがそうではない。ここにも温度差がある。
家族に比べて専門職の人は冷たい。他人だから、「ひとごと」だから冷静で落ち着いている。家族は熱い。突然の嵐のようなもので興奮状態にあり、客観視不能だ。
家族として困っていることをせつせつと訴えても、どうも本気でとりあってくれていないような気がしてよけいにイライラがつのる。のんびりし過ぎなようにも思う。
それはそうだろう。認知症は「あせってもどうしようもない」ものだから。しかし、何の予備知識もなかったら、そのことに気づくのはずっとあとだ。
医療も介護も、本気で治そうと思ってくれないのかと寂しい気持ちになったものだ。年寄りなどどうせじきに消える存在だからどうでもいいのかと腹も立つ。
今になって思えば何も腹を立てることはないのに。クレームをつけなくてよかった。クレーマーはこういう無知な人が多いのかもしれない。
いそぐ必要が全くないこと、認知症はゆっくり進むこと、周囲がどんなに努力しても治らないことがわかっていたら、最初の嵐も軽くいなすことができただろうに。