これも認知症なんだ<That's Ninchi Show 2>

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これが認知症なんだ (296) 危篤

<That's Ninchi Show  No.296 >
 
危篤は何回もあり、何回も覚悟する。それを繰り返して、ほんとうに終わる。
 
2011年の五月に拒食になってから、七月に突然食べ始めるまでは、いつも危篤を覚悟していた。医師に「生きているのが奇跡」と言われたくらいだったから。本人も、会いに来てくれた友人に最期のお別れを言い、息子を頼むと言い残していた。
 
それでも回復し、退院して施設に移ったのだから、この時は寿命ではなかったようだ。病院では元気だったのだが、皮肉なことに施設に移ってからは病気がちになった。インフルエンザが流行していたのも関係するかもしれない。
 
2012年一月に脳梗塞の再発(疑い)があり、弱ったところに感染症に二度かかり、一ヶ月も寝込む。この一ヶ月間はいつ危篤の知らせが来るかと、毎日携帯電話を気にしながら過ごした。充電を忘れないように気をつけた。
 
その時も回復できた。三月から四月は離床して、以前のように車椅子で一日過ごせるようにまで。一ヶ月の寝たきりで、身体を支える力がなくなり、リクライニング式の車椅子になるかと思っていたが、しっかり背筋を伸ばして座れていた。
 
この冬を越せたのだから夏までは持つだろうと思っていたら、四月の半ばにまた覚悟をすることになった。軽い肺炎にかかり、持病の心臓病が悪化したようだ。
 
一月や二月の時は、寝込んでも一週間ぐらいで回復の兆しが出たが、今回は違った。熱もなく、血圧や心拍数に異常が出なくなっても、医師から「食事再開」の許可が出ない。意識レベルが嚥下できるほどには戻っていなかったようだ。
 
いわゆる終末期に来たらしい。終末期では食べられないからと胃ろうを設置しても、苦しみが長くなるだけで、何の意味もないと聞いている。もちろん、施設の医師はそんなことは一切言わず、「ここで看取りでいいのですね」と確認しただけだ。
 
四月の末には、看護師さんから「意識のあるうちに、そのほうが・・」と最終通告をされてしまった。親戚に連絡すると、大阪からも二人来てくれた。十年以上会っていないが、この日はおばあちゃんの頭がはっきりしていて、しっかり覚えていたらしい。
 
おばあちゃんの友人(近所の若松さん)も来てくれ、一年ぶりにまた「最期に会えてよかった、息子を頼みます」と言っていたそうだ。
 
親戚や友人にはしっかりお別れが言えたのだが、息子や娘が会いに行ったときは、全く話が通じない状態だった。「お茶がほしい」と要求するだけで、こちらの話は聞こえていない。わが子だとわかっているのかどうかも不明だ。
 
それから二週間で、看護師さんの言うように「意識レベルが低下」し、しゃべることも、目を開けていることも、ほとんどできなくなった。尿の出も悪くなり、足の先はむくんでぱんぱんだ。今度こそ、ほんとうに終わりだ。
 
そんな状態でも、一週間ほど持ちこたえた。意識もうろうの寝たきりで。看護師さんからの電話で、「ようやく息をしている状態、心臓停止より先に呼吸が止まるかも」と言われ、ほんとうに危篤の日が来たと覚悟を決めた。
 
夕方だったので、まず近くに住んでいる弟に連絡し、先に施設に行って、新幹線で移動する三時間ほどはおばあちゃんの側についているよう頼んだ。心も重いが、喪服を入れたボストンバッグも重い。十時ごろにやっと施設に着いて弟と交替した。
 
看護師さんが言うには、不思議なことに、弟が来た頃から、おばあちゃんの呼吸が少し回復したそうだ。側にいるのがわかるのかもしれないし、偶然かもしれない。息子三人、娘一人の中でも、特に大事にしていた末っ子だから。
 
息はしているが、脈はあるかないかで、血圧も測定できないレベルだった。ベッドサイドの棚には懐中電灯が置いてある。瞳孔を見るためのようだ。
 
ほんとうにこれで終わりだという所に来ても、なぜかまだ先があるような気がする。普通に寝ているとしか見えないから。死にかけているとは思えない。苦しまないで逝くというのはこういうことなのだろう。
                                 (2012年9月)