お盆なので先祖を思うが。。
揚羽蝶を久しぶりに近くで見た。
南向きで連日猛暑の太陽光を浴びて「お疲れ気味」の様子だ。
カーテンにはなったのだが、花はほとんど咲かない。
今年で五年目だが、毎年六月に五個か六個の青い花を咲かせて終わり、残りの季節は真冬も含めて葉を茂らせている。
ツル薔薇は三年目で、今年の五月頃やっと初めて白い小さな花が五個ぐらい咲いて、今は葉っぱだけ。
日々草だけは今も七個以上のピンク色の花を咲かせている。
朝一番、その朝顔に水をやろうとしたらちょうど目の高さぐらいの葉に大きな揚羽がとまっていた。
オフホワイトに黒の紋様がある普通のタイプで、羽を伸ばすと10cmはありそうな大きさだ。
蜂はよく来るのだが、蝶はごくたまにしか来ない。
まして揚羽は稀、引越して来て十五年で初めてだと思う。
飛んでいってから水遣りしようと窓越しに眺めながら待っていた。
だが、葉から離れようとせず、すぐ隣の葉に移っただけでなかなか飛ばない。
花が咲いていないのになぜ朝顔にいるんだろうと不思議に思った。
休んでいるのだろうか。
十分か十五分はそこにいたと思う。
お盆だし、昔の人はこういうことがあると「おじいちゃんの魂が帰ってきた」などと言うのだろう。
親が認知症になる前なら「魂や心の存在」をうっすらと感じていたし、身体とは別の「自分」「自我」があると、
何の根拠もないのになぜか「魂はありそうだ」と思っていた。
その頃なら揚羽を見て「そうだ。そうかもしれない」と思ったに違いないが、今では無理だ。
なくなった人が子や孫を思っているとは考えられない。
脳というハードが消滅して、「子を思う気持ち」というソフトがなお残っているなどあり得ないからだ。
親が認知症になった時、「もうどこにも母はいない」と思ったのだが、理由はどこにも「子を思う気持ち」が見られないからだ。
脳が少しは働いている認知症の親でさえ、「子を思う気持ち」は消えて別人のようになっていた。
それを見て「心や人格や自我、魂または自分というもの」は決して永遠にあるものではなく、常時あるものでもないと思うようになった。
「自分」が消滅してしまうことを考えたくないから、魂は不滅だと思いたいのだが、それは信仰に過ぎない。
各部の脳細胞がどれも正常で、神経細胞のネットワークも正常に働いている瞬間瞬間に「いつもの自分・自我、私という意識」があり、
少しでも要素が欠けたら、違う「私」が存在する。
そういうように思う。
お盆には先祖のことを思う。
子孫が先祖を思うことはできるが、どこかで先祖が思ってくれているということはないだろう。
思いは一方通行だ。
認知症の親を思うことはできるが、向こうからは少しも思ってもらえないのと何だか似ているような気がする。
<That's Ninchi Show 2 No.1297>