認知症末期、心はどこにあるのやら。。
ひとは皆、外見だけで判断しがちだ。
うちの親のように認知症で寝たきりで「ほとんどしゃべらない」状態の老人などは、どう見られているのだろう。
もう何も考えていないと思われているかもしれない。
「暑い」「寒い」などだけでなく、「痛い」「気分が悪い」などまで言わなくなって、思考ばかりか感覚まで失っているようにも見える。
認知症の人は記憶力低下によって思考力は阻害されている(難しいことは考えられない)が、心(感情)は残るという。
これ、うちの親のように終末期になってもそう言えるのだろうか。
外見からすると、どう見ても心があるようには見えない。
しかし、見えないだけで「ない」と判断することもできないだろう。
「果てしない宇宙」と言うが、もしかすると「ここが宇宙の果て、端っこ」という所があるかもしれない。
人類の今の科学レベルでは宇宙の限られた部分しか観測できないし、今のレベルでは計算で理論上の答えを出すこともできないから。
地球外の知的生命体(エイリアン)だって、見たこと(会ったこと)がないという理由だけで「エイリアンはいない」とは言えない。
自分には見えない、または知らないというだけで「ない」とは断定できない。
見えていないものが「ある」可能性を除外できないからだ。
今の脳科学では脳波という脳の表面の電流の動きぐらいしか検知できないので、「心の状態」などは想像するだけだ。
科学的には「心は見えない」から、本人の表情や言葉(発語)や手足の動きなどの外に現れたものから推定するしかない。
うちの親のように、それらがないとなると全くわからない。
もう少し脳科学が進み、細胞レベルでの電子の移動を測定できるまで技術が進んだら、隠された心の動きが見えてくるかもしれない。
心が見えないから「ない」とみなすのではなく、それでも「ある」として対応するのがいいように思う。
脳の活動が「見える化」される日が来るまでは。
「ほっておいても何も文句を言わないからいいだろう」ではなく、「長時間一人にすると不安だろう」とすべきだ。
「おむつ、気持ち悪い」とは言わなくても、本人の心の中は「早く取り替えてくれ」と切に願っているかもしれない。
脳のことは誰もわかっていないのだから。
何も反応しなくなったからといって、長時間ほったらかすのではなく今までと同様に対応してほしいと思う。
<That's Ninchi Show 2 No.1218>