当事者にならなくても、想像力で。。。
今日も「玄関前・玄関脇たばこ」に遭遇してしまった。
駅まで十五分ほど歩くが、その間に「タバコの煙」に遭遇せずに行ける日は数えるほどで、ほんとうに少ない。
「市内全域歩きタバコ禁止」となって久しいが、あいかわらず道のあちこちにタバコの吸殻が落ちている。
アパートの玄関前や交差点などで「立ち止まっての喫煙」が見られるが、これは「歩きタバコ」ではないから認められるのだろうか。
近所の「玄関前喫煙」の煙をガマンして急いで通り過ぎて、例の特養(玄関脇の喫煙の特養)前を通りがかると、やはり。
玄関脇の壁に寄りかかって立ち、窓枠に缶コーヒーを置いて、右手にはタバコ。
制服を着ていないから職員かどうかは不明だが、今日は暖かいから「外での一服」は気持ちがいいのだろう。
喘息の発作が出るようになって六~七年だが、それまでは平気だったタバコの煙が「毒ガス」のようになってしまった。
わずかな煙でもアレルギー発作が起き、気道が狭くなって呼吸困難になる。そうなると酸素が脳に届かず、意識が朦朧としてくる。
会社勤めの頃は毎日のように「煙だらけの営業会議」に出ていて平気だったのに、「何で?」と自分ながら思う。
タバコの煙が「くさい」とは思ったが、「苦しい」などとは思わなかった。そんな人がいると想像したこともない。
自分に降りかかってみて、(当事者になって)初めてわかった。
だから、喫煙者には「タバコの煙が苦しい」という「呼吸器系疾病患者の気持ち」は理解できないだろうとは思う。
認知症の人の気持ちだって、同じだろう。
当事者にならないとわからない。
認知症になってみないことにはわからない。
「お風呂が嫌だ、着替えが嫌だ」と言って、泣いたり叫んだりする。
それどころか蹴ったりたたいたりして抵抗する。
そのような介護拒否の理由が全く理解できなかった。
そこまでして拒否するほど嫌なことだとは思えないからだ。
あとになって「大きな不安」が原因だろうと思うようになった。
だが、認知症の本人の不安感がどれほどのものか、それはわからない。
想像してみるのだが、自分の想像力の及ばない領域にある。
喘息患者にとってタバコの煙が毒ガスに思われるように、一部の認知症の人にとっては「お風呂」が「恐ろしい所」なのだろうか?
認知症の介護には高いレベルの想像力が必要になる。
本人の気持ちが想像できる人は介護に向いている人で、そういう人に介護してもらえたら不安が薄れ、安心感が得られるだろう。
「お風呂が恐ろしい」だなんて、普通の人は共感できない。
それでも「お風呂を怖がる人もいる」と理解し、その気持ちをわかってあげた上で行動することが必要だ。
それが「認知症の人に寄り添う」ということだと思う。
<That's Ninchi Show 2 No.1108>