認知症の親のために、自己犠牲は。。。。。
誰かの役に立つことが喜び、それが人間だ。
ヒトはサルと同じく集団で暮らす動物だから、自分の利益だけでなく同じ集団の他者の利益も大事にする。利他的な行動をするようにできている。
誰かの役に立つことを望むし、それがかなうと満足感や達成感が得られるので、結果的には「他者のため」の行動は自分のためにもなる。
ときには「誰かのため」「社会のため」「人類のため」に何かをすることが、その人の生きがい(または、自分がここにいることの意味)になる。
見ず知らずの他人の役に立つことを望むくらいだから、自分を育ててくれた親の役に立ちたいという気持ちは誰しも持っている。それが自然だ。
それを考えると「年老いた親の世話をするのは当然で、強制ではなく自分の自然な気持ちから望んですること」と多くの人が思うのも無理はない。
しかし、親が認知症になった場合は別だ。
認知症の親の役に立つことを望み、自分が世話することで少しでも症状の悪化が抑えられ、少しでも安楽に暮らせることを願う。
が、どんなに努力しても満足できる結果は出ない。満足感や達成感は得られないので、「認知症の親のため」の行動は自分のためにはならない。
認知症の親の介護は「自分のためにならない」どころか、「自分を害する」結果になることも多い。精神的に身体的にダメージを受けるから。
「ヒトは利他的な行動をする」のが自然であっても、それは自分の利益を損害されないという前提があってこそ。自己犠牲は自然に反する。
家族による在宅介護を拡大させようとする人々は、そういう犠牲的な介護を知っていて目をつぶっているのだろうか。「人」よりも「お金」重視で。
社会の利益のために個人の利益は損なわれてもいいのだろうか。
自然に反することを推奨されても、(条件的に能力的に)できる人は限られてくるし、短期間の自己犠牲はできても長期間の継続は難しい。
三十年前(一世代前)の老人介護は「寝たきりは数ヶ月、トータルでも介護は三年ほど」という認識だったが、今では「寝たきりで十年」もあり得る。
「家族による在宅介護」というのは理想だ。こだわらないでいいと思う。