これも認知症なんだ<That's Ninchi Show 2>

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認知症で胃ろう、終末期は。。。。。

寿命だったと納得して見送ることができない。
 
胃ろうで人為的に寿命が延ばせるとなると、終わりが見えなくなる。胃ろうは「どうであっても生かす」という医療の目的には合う。「機械的に生かされる」ことで。
 
個人の生き方は除外されている。最期までこうありたいという、生き方や逝き方については考慮されない。目前の「栄養不良による老衰死」を避けるのが胃ろうだ。
 
何の反応もなく、ただ息をして寝ているだけになって生きていることを、自分の人生にそういう結末がくることを誰が予測しているだろう。誰が望むだろう。
 
そんなになって長期間、何年も家族に迷惑をかけてもいいと誰が思うだろう。そんなになった親を見て、子や孫が「それでも生きていてほしい」と心から願うだろうか。
 
そんなになった親の姿は一瞬でも見たくない、いつまで続くのだろうと思うのではないか。「いなければいい」と思われるようになるのは親としてはつらいことだ。
 
何の反応もなくなった「胃ろうで寝たきり」の老人を世話する家族は、長期になると「胃ろうを付けて、ほんとうにこれでよかったのだろうか」と思うときがあるらしい。
 
そういう状況を考えて、この問題が老人医学会で討議され、「医師の判断で胃ろうによる栄養補給をやめる」ことが可能になった。本人の苦痛が長びくだけなら・・と。
 
しかし、「それならやめましょう」というのは難しい。食べさせても本人が食べないで結果として老衰に至るのと、人為的に栄養補給を中止するのとは違う。
 
ここでも、本人以外の他者(家族など)が寿命を決めるという問題が生じる。
 
「胃ろうを付けないなら、あと一年」と言われて、寿命が延ばされる。寿命は「ひとが決める」ものではないはずだ。たとえ身内でも。
 
やはり本人の意思だ。自分の最期のありかたは自分で決めておき、頭がしっかりしている間に家族に伝えておくことだ。それ以外はない。
 
医療技術の進歩は、老人の「自然死」をないものにした。いくつもあったその危険をいつもいつも乗り越え、最終的には胃ろうで延命することで。
 
老衰なら誰でも納得する終わり方だ。八十歳や九十歳ならば誰でも。
 
自然死がないということは、「家族はがんばって世話をしたけど寿命だった」という終わり方がないということだ。後悔のない看取りが難しい時代なのかもしれない。