これも認知症なんだ<That's Ninchi Show 2>

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これが認知症なんだ (279) 共有できない「今」

<That's Ninchi Show  No.279 >
 
普通、「今」という時間はどの人にも共通で、普遍的なものだ。
 
しかし、認知症老人には、それは通用しない。見ているものも違えば、聞いている音も違う、そういう幻視幻聴があるだけでなく、時間までこちらの世界とは違っている。
 
今日が何年何月何日かわからない、というのはカレンダーの順番を覚えられなくなった、記憶力の低下、という理由だけではない。認知症老人は、その時その時で「違う時間」にいることもあるからだ。
 
おばあちゃんに「今、何歳?」とたずねると、その時その時で答えが違う。五十五歳と言ってみたり、六十三歳と言ってみたり。正しい年齢(81歳)を言えたことがない。最高齢でも七十五歳だ。認知症を発症してからは、年をとらないようだ。
 
認知症が出てからは、カレンダーも見なくなった。月が替わっても、破らずにもとのままで壁にかかっていたから。時間がそこで止まったのかもしれない。
 
自分の年齢がわからないなんて、ボケ老人ぐらいのものだ。そう思われたくなくて、わからないなりに適当に答えていると思っていた。だが、最近はそればかりでもないという気がする。理由はそれだけではないと。
 
今日が何日かわからないで、数年が過ぎた。お正月も母の日も本人の誕生日だって何の意味もない、「いつもの日」だ。おばあちゃんに、「お誕生日だよ。はい、プレゼント」と言ったら、いつも、きょとん。何を言ってんのという顔をしている。
 
「誕生日はとっくに終わったじゃない」と言って、何をぼけたこと言ってんだろうというような表情で、自信たっぷりに説明を加える。ついこの間、みんなにお祝いしてもらったばかりだそうだ。それは、一年前のことなのに。
 
この一年間の記憶はどこかに消えて行ったのか、あるけど思い出せないのか。どちらにしても、今のおばあちゃんは「今の時間」にはいない。一年前の誕生日の一週間後にいるようだ。「時をかける少女、でなくて、時をかけるおばあちゃん」だ。
 
とっくに他界したおじいちゃんがまだ生きているような(今日も仕事に行っているとか)発言をしたり、まったくおじいちゃんが存在しないような発言があったりする。おじいちゃんに出会う前、結婚前の自分に戻っているのかもしれない。
 
認知症老人の「今」は、その時その時で「いろんな時代の今」があるようだ。朝、目がさめたら、二十年前で、昼寝をして起きたら、五十年前、そんな風に。
 
生まれてから三十年前までの記憶しか思い出せなかったら、「今」は三十年前だ。
久しぶりに娘が訪ねてきても、「三十年前の今」にいる場合は、娘だとわからなくても当然だろう。
 
五十過ぎのおばさんを見て、自分の娘だとは思うわけがない。娘は二十代だから。が、顔はどこか見たことがあり、親戚によく似ている。きっと親戚の誰かだろう、そんな風に思っているはずだ。誰か忘れたけど、適当に話を合わせておけばいいと。
 
施設の職員さんに「娘さんが来てくれてよかったね」と言われても、きょとんとしているのは、そういうことだ。心の中は「娘など来ていないのに、この人何を言ってるんだろう」とでも思っている。いろいろ世話になっているから、言わないだけで。
 
自分には娘がいるということを忘れたわけではない。職員さんが気をつかって、「娘さんの名前、教えて」とたずねると、しっかり正確に答えていたから。
 
親孝行してきたのに、自分のことがわからなくなったと嘆くことはない。まったく記憶が消えているわけではない。その時たまたま思い出せないだけだから。
 
ときどき、「おばあちゃんの今」がこちらの今に近づいてくることもある。
 
携帯で写真を撮って、見せてあげると、「年齢の割には若いね、私」と喜んでいる時があった。ちゃんと自分だという認識があるから、「おばあちゃんの今」と我々の今は同じだ。「この年寄り、誰?」と言い出したら、過去に行っていることになる。
 
認知症老人の時間は一定でもなく、普遍でもない。脳内の記憶がどの時代まで呼び出されるか、で決まる。そんな気がする。
                                    (2012年8月)